徳川家康に学ぶ経営術 江戸の始祖から「長続きさせるコツ」を教わろう!

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徳川家康は、戦国時代を制して平和な江戸時代をもたらし、江戸時代300年という礎を築いたとして誰もが知る戦国武将です。2015年には徳川家康没後400年という節目の年を迎え、改めて注目されている人物でもあります。そんな中、徳川家康の下には多くの優秀な人材が活躍してきたとして知られており、歴史の偉人を振り返ってもビジネス書に多く登場しているのも特徴です。そこで今回は、徳川家康が築いた経営術や事業を長続きさせるコツなどを紐解いていきましょう。

 

徳川家康についておさらいしよう

まず、徳川家康という歴史的人物についておさらいしましょう。徳川家康は、1542年松平広忠(17歳)と於大の方(15歳)との間に岡崎城で誕生しました。母である於大の方が、兄の水野信元が今川義元と敵対する織田方についてしまい、離縁してしまいます。その後、父である広忠が織田家に対抗したため、徳川家康は青年になるまで今川義元の人質として生活を送るなど苦労して育ち、我慢を重ねてきました。成人になると今川義元の家臣となりましたが、そんな今川義元も桶挟間の戦いで織田信長に討たれてしまいます。徳川家康は織田信長と同盟し、本能寺の変で織田信長が暗殺されるまで共に戦いました。その後豊臣秀吉の家臣となり、全国統一後は五大老となり、秀吉に次ぐナンバー2の大名となっています。秀吉の死後、秀吉の有力な家臣だった石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでようやく天下を取ったのです。徳川家康が天下と取り、征夷大将軍となったのは1603年で、60歳になる頃でした。他界したのは1616年6月1日で、73歳で生涯を終えています。

 

組織作りにおいて大切なこと

およそ400年前、江戸時代の平均寿命は50歳でしたが、徳川家康は73歳という当時では大往生でした。平均寿命よりも10歳上の60歳で天下を取ったという面を見ても、徳川家の血筋が絶えないよう努力を重ねていったのではないでしょうか?世間では、徳川家康は残酷なイメージを持っている方もいますが、長年江戸幕府を築けたというのは徳川家康の組織作りが根底にあったのではないかと考えられているのです。

徳川家康は、将軍家を維持するために「御三家」を作りました。征夷大将軍となった2年後には、息子の秀忠に将軍を譲っているのです。しかし、当時秀忠の息子である徳川家光は生まれたばかりだったため、秀忠の血筋が途絶える可能性も踏まえ、自身の9男・10男・11男にも徳川の姓を与えています。仮に秀忠の子孫が途絶えても、この3人の子孫からも将軍が継げるようにしたのです。この3人は御三家と呼ばれ、後に尾張・紀州・水戸の藩祖となっています。こうして見ると、徳川家康は人を大切にして徳川家臣を育成し、江戸幕府の基礎を築いたと言えるでしょう。また、徳川家康は、幼い頃に100人体制の相手と50人体制の相手が戦う阿倍川石合戦の見物に行っています。その時、誰もが100人体制の相手が有利と判断していましたが、徳川家康は違いました。実際に勝利を冷めたのは、徳川家康の予想通り、50人体制の相手でした。徳川家康は、100人体制の相手は数があるから団結力がなく、ケガをした者がいても手当をしないが、50人の方は一人ひとりが真剣でお互いに協力し、ケガをしてもかばいあっていた点を見たと言っています。

つまり、人を大切にしない組織は結束力がないこと、数があっても力を発揮するには協力が不可欠だと判断していたのです。実際に、2万人の軍勢の包囲された時には、徳川家康の軍は3000人の兵しかいませんでした。知らせを聞いた徳川家康は、岡崎城から自ら出撃しようとしましたが、3000人の兵で突撃するのは自殺行為でもあり、周囲の家臣から止められました。しかし、自分が城を守るよう命じたのだから、約束を守って助けにいくのが当然だと叫んだそうです。信義に欠けた言動を取るのは許されないとし、仲間を見殺しにしたくはないと述べたのです。仲間を大切にする徳川家康だからこそ、多くの家臣がついていったのではないでしょうか?

 

唯一の宝は部下

ある時、当時関白だった豊臣秀吉が、ある時諸大名の前で天下の有名な宝をほとんど集めたとして自慢を始めました。秀吉は、徳川家康にも同じく宝は何かと問いました。すると、三河の片田舎で育った者だから珍しい宝物は持っていませんが、自分のために命がけで働いてくれる部下を500人持っていると述べたのです。500人の部下がいれば天下に恐ろしい敵はなく、第一の宝だと思っていると語ると、秀吉は赤面したと言われています。企業と社員という話に置き換えれば、徳川家康は社員を大切にする企業の社長という位置付けになるでしょう。実際に働く際には、社員を過酷な状況で働かせる企業よりも、一人ひとりを大切にする企業で働きたいものです。徳川家康には、社員のモチベーションを向上させ、社員の立場に沿った仕組みづくりを行う力があると言えます。胸を張って宝物は部下と言い切れる徳川家康は、非常に強い将軍だったに違いありません。

 

人手不足が深刻化する時代において重要なポイント

近年は、企業の採用難が続いており、多くの課題が山積みとなっています。そんな中で、徳川家康の組織作りや部下を大切に思う気持ちは、今後企業が存続するためにも参考にすべきポイントと言えるでしょう。

・感謝の気持ちを伝える
徳川家康は、幼少期を人質生活という厳しい状況の中育ちました。しかし、その境遇を嘆くのではなく、家臣をいたわる気持ちを忘れなかったそうです。感謝や労る気持ちは、組織のリーダーだからこそ持つべきものではないでしょうか?

・どっしり構える
戦国時代は、家来を打ち首にするケースが少なくありませんが、徳川家康は自分への暴言があってもほとんど処分しなかったそうです。多様な人材を育て活躍させるには、どんなに批判や不満を言われても、感情的にならず対処する必要があります。

・弱みも見せる
リーダーという立場の人物は、弱い部分を部下に見せないというのが定着しています。しかし、時には弱い部分を見せ、組織の結束力を高めていけるようプライドは捨てなければならないと徳川家康は考えています。

・社員が率先して行動できる環境に
企業において、社員一人ひとりが自ら考え行動するというのは非常に重要であり、モチベーションアップにもつながります。
徳川家康は敢えて率先して発言せず、家臣の発言や行動を大切にしていたそうです。

・リーダーは物事冷静に判断する
徳川家康の考えによれば、社員は無用なリスクを抱えてまで業務を遂行する必要はないとしています。どんなに周囲が称賛するような業務をしても、リーダーは冷静に物事を判断しなければなりません。

・独断専行してはいけない
特に重大な決断をする時には、リーダーの判断に従うのではなく、チームとしての総意を大切にする必要があります。徳川家康は、家臣達に話合わせて決定したと言われており、独断専行は決してしませんでした。

・身内に厳しく
徳川家康は征夷大将軍になった時には外様大名の処遇を改善したと言われています。その一方で、自分の周辺にいる人物は優遇しなかったそうです。身内に優しくしてしまうと、全国で不満が起きて天下が乱れてしまうと判断したのではないでしょうか?

このように、徳川家康が取った行動は、企業対社員の視点で見ても頷く点がいくつもあります。徳川家康は「宝の中の宝には人材にしくものはなし」と述べていますが、それは今後企業や社員が意識すべきポイントでもあるでしょう。

ここまで、徳川家康に学ぶ経営術や、企業を存続させるコツについて見てきました。江戸幕府を築いた徳川家康は、部下を大切に思い組織づくりを行ってきたと言えるでしょう。今後は数多くの企業で人手不足が予想されますが、徳川家康の経営術やポイントを参考にしてみてはいかがでしょうか?

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