もし明智光秀が現代のビジネスマンだったら優秀か

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明智光秀と言えば、本能寺の変で織田信長を討った人物として把握している人が多いでしょう。
しかし、明智光秀がどのような人物なのか謎な部分もたくさんあります。
いつ生まれたのか、どこで生まれたのか、両親は誰なのかといったことすら分かっていないのです。

そんな明智光秀は、現代のビジネスマンだったら優秀なのではないかと考えられています。
今回は、その真相について迫っていきましょう。

明智光秀は一体どんな人物だったのか?

まずは、謎が多い明智光秀が一体どんな人物だったのかご紹介していきます。

明智光秀の人物像

明智光秀は、『天台座主記』に「光秀縷々諌を上りて云う」と書かれていることから、比叡山延暦寺の焼き討ちに反対していたと考えられています。
なぜ反対したのかというと、仏教勢力と親密な関係にあったからだと言われているのです。

しかし、織田信長の命令で延暦寺の焼き討ちや対宗教戦争に参加していたため、宗教に対して保守的ではない一面もあったと伝えられています。
そんな明智光秀が主君である織田信長を本能寺の変で討ったのは、かつて逆賊としての見方が強くありました。

そんな中、フロイス日本史では少し違った見方になっています。
フロイス日本史における明智光秀は、

・己を偽装するのに抜け目がない
・自分自身が受けている寵愛を増大するための器用さを兼ね備えていた
・独裁的な一面もあった
・殿内ではよそ者として扱われていたため多くの人が快く思っていなかった

などと書かれています。
このような考え方もあるため、明智光秀に対する評価を見直すべきだという声も上がっているのです。

明智光秀の出自は謎に包まれている

明智光秀の出自は多くの謎に包まれています。
そのため、いくつもの説が存在しています。
『明智一族宮城家相伝系図書』には進士信周の次男と記されていて、『塩尻』には美濃の明智から使者として織田信長の元に送られた御門重兵衛を気に入って明智を名乗らせたなどの説です。

この他にも、若狭国小浜の刀鍛冶として知られていた藤原冬広の次男だとか、土岐元頼の息子だといった説もあります。
美濃の明智出身だという説が最も濃厚だと言われていますが、出生地などが明らかになっていないため、はっきりと断言することはできません。

明智光秀の人生に関する言い伝えは様々です。
書き記されたものもほとんど残されていないようなので、今後も憶測の域を抜けない説から探っていくしかないと考えられるでしょう。

明智光秀はどのような活躍をしてきたのか?

謎が多い明智光秀ですが、生きている頃は活躍していた人物であることは間違いありません。
次に、明智光秀がどのような活躍をしてきたのか見ていきましょう。

本能寺の変で脚光を浴びる

明智光秀が注目されるようになったのは、誰もが知っている本能寺の変です。
本能寺の変は、三好三人衆と呼ばれる三好長慶などの過信が実験を握るために行ったものです。
足利義昭の兄である足利義輝は本能寺の変が起こる4年前に暗殺されていましたが、足利義昭も暗殺しようと考えていたのです。

織田信長が岐阜城に戻るタイミングを見計らい、本能寺を襲っています。
この時に明智光秀は本能寺の内部にいて、奉公衆などとともに撃退します。
将軍・足利義昭を守るために戦った人物として『信長公記』には残されているのです。

京都奉行に抜擢される

明智光秀は、京都奉行に抜擢されるという実績の持ち主でもあります。
将軍・足利義昭から知らせを受けた織田信長は岐阜城から本能寺までわずか2日で到着しました。
そして、本能寺を守り切った明智光秀の活躍を讃え、信頼を置くようになります。

その後、明智光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀、中川重正の4人が連署で文書を発行しています。
その文書は京都奉行に関するものだったことが分かっているため、明智光秀も京都奉行に抜擢されていたと言えるのです。
織田家に仕えてからまだ1年ほどしかたっていなかったにも関わらず、このような活躍ができているのはそれだけ明智光秀に能力があったからだと言えるでしょう。

どうして明智光秀は織田信長を討たなければいけなかったのか

明智光秀は、織田信長に信頼され、大きな活躍をしてきました。
それなのに、どうして織田信長を討たなければいけなかったのでしょうか?
織田信長についていた明智光秀は、家中軍法の中で、「瓦礫の如く沈んでいた私を信長公が召し出され、多くの軍勢を預けて下さった。一族家臣は子孫に至るまで、信長公への感謝を忘れてはならない」という言葉を残しています。

これほど感謝の気持ちを持っているのに、謀叛を起こすとは誰も想像できないはずです。
織田信長を討つことになってしまった明らかな証拠は残されていないため、謎を暴くことはできません。
しかし、織田信長が野望を叶えるために方向転換することを阻止するためだという考えがあります。

なぜ方向転換すると思ったのかというと、敵対勢力がいない四国に攻め入ろうとしたからだと言われています。
そうなることを防ぐために、明智光秀は織田信長を討ったというのです。
このような考え方もできますが、明らかな証拠は残っていないため、何を考えていたのかは想像の域に留まったままになってしまいます。

もしも、明智光秀が現代のビジネスマンだったら?

様々な活躍をしたけれど、最終的に織田信長を討ったことから、裏切り者だと思われがちな明智光秀です。
確かに織田信長を裏切ったと言ってしまえばそれまでなのですが、そんな明智光秀が現代のビジネスマンだったらかなり優秀な人材なのではないかと考えられています。

最後に、明智光秀が現代のビジネスマンだったらどんな仕事ぶりを見せてくれるのか、明智光秀の行動などから考えてみることにしましょう。

周りを意識することで出世できた

明智光秀は、驚異的なスピードで出世しています。
その背景には、周りを意識した行動ができる人物だったという本質があります。
同僚や部下などもすべて顧客として考え、満足してもらうためにはどうすれば良いのかを考えていたのです。

そのためには、自分自身が置かれている状況を俯瞰し、問題解決へと導くためにはどうすれば良いのかを考えなければいけません。
その結果、相手に対する依頼心を軽減することに繋がり、相手に気に入ってもらうための行動ができるようになります。
それができていたため、明智光秀は早い段階で出世できたのではないでしょうか?

現代のビジネスマンにとっても必要なスキルであり、出世のために身に付けたいスキルだと言えるでしょう。

想定内にいろいろな事象を収めておく

明智光秀が生きた時代は、生と死が表裏一体の時代でした。
つまり、想定外の出来事が起こるということは、死につながってしまいます。
自分自身の命を守るために、あらゆる角度から見たシミュレーションが必要になるのです。

織田信長の仕えながら、迷いのない行動ができるようにシミュレーションしていたからこそ、活躍できたと言っても過言ではないでしょう。
あらゆる角度から見たシミュレーションは、現代のビジネスマンにも必要です。
取引先や社内で起こり得る出来事を想定内に収めることで、仕事もスムーズに進みます。

 

 

 

 

明智光秀は現代のビジネスマンだったとしても大きな実績を残したのではないかと考えられます。
裏切り者として注目されがちな明智光秀ですが、少し見方を変えてみると私たちにとって必要なことを教えてくれていると言えるでしょう。
ぜひ明智光秀が持っていたスキルを、現代人も参考にしてみてはいかがでしょうか?

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